目次
- 1-1
- 「東六号病棟」より
- 1-2
- アルコール研修に参加して
- 1-3
- アルコール依存症の診断と治療
- 1-4
- アルコールと健康
- 2-1
- 心の渇きと飲酒の意味
- 2-2
- 子どもの飲酒の問題点
- 2-3
- 〈座談会〉アルコール問題を考える
- 2-4
- アルコール依存の社会的背景
- 3-1
- 人間の「酔い」について
- 3-2
- アルコール治療と究極期看護
- 3-3
- アルコール依存症の最近の知見と治療法
- 3-4
- アルコール依存症のケアーとQOL(生命の質)
- 3-5
- ヌクモリと人間関係
- 3-6
- 「健康」には愛の思想を
- 3-7
- 適正飲酒概念について
- 3-8
- 久里浜方式の定義と能力障害状態概念
NEWS
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医学の中のアルコール医療
人間の「酔い」について
人間の「酔い」について
「酔い」の精神的・人間的側面
根源的人間化と「酔い」
人間が酒を飲むのは、たしかに「幸福」になるために飲むのである。したがって、時、場所、機会に応じて自分の飲酒行動を自由に統制し、社会との調和を図りながら、その人の人生を飲酒行動によって豊かにしていくのである。そして、それは意識清明な正気では得がたいある体験―「酔い」を求めているのである。
人間は社会的、実利的なメリットのみでは満足できない、ある精神的志向への本質的欲求がある。その志向性はきわめて個性的であり、独自の「生きる意味」(raison d'etre)を求めるのであり、それこそが「酔い」の体験を求めさせるのである。「酔い」のない正気だけの人生は、プラトンの「パイドロス」の中の主役であるソクラテスか述べているように、神々より贈られた人間最大の恩恵の一つであるディオニソス的陶酔を欠如したものになる。そこでは、熱情的な生命的な生きる意味への実感を喪失した、幾何学的な論理の世界だけが残されていることになる。
「酔い」はこころを拡げ、受動的で一過性ではあるが、ある独自の生命的カオス(chaos)的実感を可能にして、表現しがたい独自の生きる意味を体験させてくれる。
正気は、客観的世界に対処するすべての価値の源泉である。しかし、対象的に概念化されたその世界は正確であり、生物学的適応としては適切な客観的知識を与えてくれるが、独自の無限の可能としての生きる意味は与えてはくれない。「正気」であるとともに「酔い」を可能にする人間の根源的構造は、表3のような補完概念による二極構造を示している。
正気な合理性とは、人間の「対象的概念化としての知性」(intellectuality of objectifing concept)」の偉大さと同時に、その限界を示すものである。とくに因果性においては、時間論的はじまりはけっして原因を含まず、先験的綜合を意味しているにすぎない。人間存在の原点は、生命誕生の神秘的無意識存在であり、無意識はもともと自然の一部であり、生命の喪失により、いつでも自然に帰ることができるものなのである。すなわち、神秘的無意識存在とは、宇宙的自然(natura)の人間的自然(natura humana)としての人間化なのである。
因果律を支える時空とは、意識化された精神のあれこれを区別する活動から生じて実体化された概念であり、運動する物体の行動を記述するのに不可欠な座標軸となっているものである。意識作用が個体を時空に宙吊りにするため、すなわち、時空からの距離を固定するために決定したものであるから、無意識存在が時空の枠組みを超えるのは当然である。
これに対し、共時(synchronization)とは、外化された無意識であり、生命の目的と切り離し得ない志向性を本質的に有している。人間的自然では、文化により定型化された生命的本能は退化し、かえって無定型な衝動が創り出されてきた。この人工的突出が、自己中心的酔いによるディオニソス的陶酔である。
人間は「俗」のコスモス(cosmos)の所産に参与し、さらに、能産的カオス(chaos)としての聖なる社会的「祭り」に参与して生きている。
彼が「俗」の所産的cosmosとしての現世の秩序に耐えられなくなると、能産的chaosとしての聖なる祭りに参与したいという痛切なる欲求が起きてくる。なぜなら「祭り」とは、無意味な生命的chaosの侵入からcosmosを守るためにかえって自発的にchaosの生命力に立ち帰り、新しい意味としてのcosmosを再構成する瞬間なのであるから。
人間が、「俗」の所産的cosmosとしての現世の秩序に耐えられなくなり、能産的chaosとしての「聖」なる社会的祭りにも参与できなくなると、どうなるであろうか?
人間は、生物学的苦痛にはたえられても、無意味な世界(無秩序)にはたえられないので、彼は孤独な、反祭りとしでのアルコールによるディオニソス的祭りを、人工的に創り出さざるを得なくなる。そして、それにより新しいcosmosを再構成しようとする。
また、聖なる社会的祭りに参与できたとしても、それは文字通り「社会的」なだめ勝手に人工的に創り出すことはできないので、このアルコールによる人工的祭りはきわめて能率的で便利なものである。
現代では「聖」としての能産的chaosは、「俗」の能産的cosmosに解消されてしまっている。例えば、宗教的クリスマスは商業的クリスマスに置換されてしまっているように。すなわち、「聖」が「俗」に吸収されてしまっているので、生きる意味としての「本来の宗教的祭り」がなくなり、社会的広がりのある飲酒も産業化の波に押し潰され、本質的祭りとしての機能を失い、「産業化の祭り」と化してしまっている。
したがって、人びとは本質的に意味のある宗教的祭りを失い、反祭りとしての孤独な「人工的酔い」に溺れていくのである。
酩酊様体験
近代科学の理神化と、その結果の産業化の物神化によって、現代人は聖なる祭りを喪失しつつある。とすると、われわれはどこにそれを求めるのであろうか? 独自であるとともに、社会的な真実の生きる意味を。
文化というものがその超えられない地域性(国家、東西等)と言語性(英語、日本語等)、人種性(日本人、フランス人等)に必然的に拘束されているとき、われわれは人間としての生きる意味の人類的な根源的同一性を、どこに求めたらよいのであろうか。人間がその独自の生きる意味を求めて自由に探求する酩酊様体験は、次の三つに分類できるのではあるまいか。
(1)有限性と偶然性によって、神秘的現実として誕生する意味存在としての生命が、その意味を無限に問わるべきものとしての「内なる聞かれた存在一般」を志向するのではなく、これは、内的「良心の自問」と、それに対する生きる意味としてのその主体の応答であり、これこぞが地域性、言語性、人種性を超えた人間の唯一の人類的同一性である。
ここにおいてのみ人間は、「意味における無限」という開かれた存在を実感できる。すなわち、生命として限りなくその存在理由をみずからに問い、求めうるのである。死さえもがその無限の問いを妨害し得ずに、意味としての無限の生命を獲得することが可能なのである。たとえば殉教がある。
人びとはここでは「英知」(intellect)の「原因としての真理」(a truth)に生きうるのであろう。このためには、いかに人種、国家、地位、富、権力等、対象化されるすべてのものが与えられていなくとも、「良心の自問」によりそれが可能になる。
意味の志向性が、対象化され得る外のものに向かう方向性も可能である。しかし、この時は対象的概念化としての「知」(intellectuality)が重要な要素となり、とくに知的に恵まれた人びとにおいてのみそれは可能になる。すなわち、「知」としての論理に酔うことである。
だが、宇宙的自然存在(natura)は、現代の科学的知識ではその存在一般に開かれている(open set)のか、または閉ざされている(closed set)のかはまだ不明である。すなわち、宇宙空間は開空間なのか閉空間なのかはまだまったく解明されていないのである。
したがって、この「知の論理」としての「一つの真理」(the truth)に生き甲斐をかけることが無限にかけることであるという保証は、まだ科学的には不明なのである。しかも、学者が学問の探求に生命をも賭するとき、その行為が彼の「内なる良心の自問」への応答としての生きる意味単なる科学的な知的論理にあるとは、誰が断定し得るであろうか。
いいかえると、前者は、万人に可能な確実な内なる無限の生命存在の深淵からの呼びかけに答える「原因としての真理」に酔うことであり、後者は、限られた人びとのみ可能な、科学的確証はないが、対象化できる自己を含む壮大な宇宙の探求における「知としての論理」に酔うことである。すなわち、前者も後者も「生命より生ずる無限」に(of)“感動”することである。
(2)第二は、複数の生命がそれぞれの存在における有限性と偶然性の上に、歴史的「出会い」という二重の有限性と偶然性によって、人間的自然(natura humana)としての身体的接触性を介して(through)、その「生命的連帯」に酔うことである。
典型的なのは男女の性を介しての恍惚である。それは、生命的連帯を超え、種としての生命的連続性にも向かう。要するに、生命的連帯性、連続性に“恍惚”となることである。
(3)最後に、完全な自己の対象的支配下にある物質(natura)としてのアルコールによって(by)、自分の対象的身体を介しての“酩酊”がある。
(1)、(2)の感動、恍惚は、自己、他者の人間的自然(natura humana)としての対象性は介するとしても、無限の意味を問い求める自由に伴う意味論的努力が不可欠であり、まさに内的無限との遭遇としての人間の生命の営みである。
しかし、(3)の酩酊では、まさに人間的努力を要しない。操作のみで速成できる人工的反祭りとしての受動的意味があるのみである。