目次
- 1-1
- 「東六号病棟」より
- 1-2
- アルコール研修に参加して
- 1-3
- アルコール依存症の診断と治療
- 1-4
- アルコールと健康
- 2-1
- 心の渇きと飲酒の意味
- 2-2
- 子どもの飲酒の問題点
- 2-3
- 〈座談会〉アルコール問題を考える
- 2-4
- アルコール依存の社会的背景
- 3-1
- 人間の「酔い」について
- 3-2
- アルコール治療と究極期看護
- 3-3
- アルコール依存症の最近の知見と治療法
- 3-4
- アルコール依存症のケアーとQOL(生命の質)
- 3-5
- ヌクモリと人間関係
- 3-6
- 「健康」には愛の思想を
- 3-7
- 適正飲酒概念について
- 3-8
- 久里浜方式の定義と能力障害状態概念
NEWS
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- 12/3/28
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アルコール医療の現場から
「東六号病棟」より
「東六号病棟」より
無償の働く喜びを
-『東六』発刊のことば-
潮騒の聞こえる野比海岸で、病み疲れた心身の憩いを求めて集まった人びとが、再びそれぞれの希望を胸に再出発されるのを眺めはじめてからはや一年が過ぎました。目をつぶると、開棟当時、何もなかった時代の暖房の炭、不十分で申し訳ないと心の中で思いながら開始した裏山の公園化作業、週一回の話し合いでの激しい批判や友情等々、なつかしい思い出が一時に押し寄せてきます。
この思い出の中で僕にとってもっとも感動的であり、逆に患者さんから教えられたと感じたことを述べてみたいと思います。それはこの世知辛い世の中で、なんと美しい、無償の汗を流すことの喜びを力強く示していただいたかということです。
失礼な予想でしたが、鋤や鍬をふるって行う開拓に近い作業の身体的苦しみや、怠ける人や身勝手な人の悪い影響で、作業はなかなか進行しないものとほとんど信じておりました。結果はみなさんのよくご存知の通りで、現在の「希望ケ丘」と温室及び東屋となってみなさんのおいでをお待ちしているだけではなく、後輩の人たちをも暖かく迎え入れております。今みなさんが行っている園芸の作業は、先輩たちの「ひたいの汗」から生れた温室ぬきには考えられません。
考えてみますと、作業は肉体的苦労や身勝手な怠ける人が確かにいつもいたにもかかわらず、そのようなことがあまり問題にならなかった。そんなことよりも力を合わせて何物かを創り出すことの喜びをみなさんが感じていたという事実が、むしろ出来上がった東屋や、温室より重要なのではないでしょうか。これは後輩のために無償の汗を流し、働く喜びの中に新しい自分の生き方を体で確認してゆく無形の伝統であり、そして、みなさんが作り出したすばらしい病棟という財産であると私は信じています。
しかしながら、この財産は腐りやすい果物のようなもので、いつでもみんなで守り育ててゆかなければならないものです。手を技くとたちまち腐り出します。この腐り出す徴候を僕なりに考えてみますと、次のようなことになるのではないかと思います。
働くことが自発的で喜びに貫かれている時は、怠ける身勝手な人を哀れな人と感じるようです。
しかし働くことが辛くていやになってくると、怠けている人がうらやましくて仕方がなく、非常に目ざわりになり癇の種になるということです。東三病棟の人たちが作った不完全な山路や土止めを、弟分の手助けをするようにもくもくと補強していた人たち、僕はこの人たちから不思議に弟分をばかにする気配を感じませんでした。退院までに、あそこまでは土止めを自分の手でしてから帰りたい、といっていた人たちには、病棟で怠けている人たちの存在はなんの障害にもならなかったようです。それぞれの人たちが、それぞれの自発性によって流す無償の汗は、はじめはその効果が少なくとも、たがいに協力することによって病棟の主流となり得るということを、みなさんは実証してゆかれました。これは守り貫かねばならない病棟の伝統であると信じます。
病棟も外遊から帰国された堀内先生をお迎えして、ますます充実発展の途上にあります。本誌の発刊を機会に、同窓の人たちと在院中の人たちとの交流が実現し、心の中にも、現実の創造物の中にも、美しい病棟の遺産がつみ重ねられることを切に祈ります。
最後に、やせ我慢で結構ですからともかく酒を飲まないこと! これが崩してはならない絶対の心構えですから。どんなに僅かでも自発的な無償の働く喜びを! これがやせ我慢の禁酒で作り出されている、あなたたちの心のうつろさを確実に充実させてくれるものですから。
ある結婚式
ケースワーカーの白石さんのお話によると、みなさんの中には「もう自分などと結婚してくれる人なんていないだろう…」と、いささか捨てばちな気持ちになっている方が多いということですが、私が経験したある結婚式のことをお話してみたいと思います。
その人は、みなさんの大先輩で、入院の時私はその家族に「治る見込はないがあきらめのためにお預かりだけはしましょう」といって入院させた人でした。彼の言葉によると、三か月してから初めて「親父の愛情に対しても生まれ変わった気持ちで酒をやめて安心させねば」という気持ちが生じてきたとのことです。しかし、医者の側から眺めていますと彼の病棟生活、作業態度は、彼の中に“断酒”の意識の生まれる以前から、実に立派なものになっていました。彼の立ち直りは“言葉より先に行為”からはじまっていたわけです。
彼も退院した当時は、失敗した結婚生活の経験から、結婚については、みなさん同様に一種の深刻な危惧を抱いていたようでした。その彼が、結婚するからぜひ式に出席してほしいといってきたわけです。正直いって日帰りのできる近いところでもなし、またそれ以上に、アル中の主治医であった私がおめでたい席に出るのもどうかと思いましたので、気持ちはあまりすすみませんでした。しかし、電話での強い希望でもあり時間を都合して出かけました。
出席してみると、主席で祝辞をとのことでした。そこで私は次のように話しました。
「彼が肝臓を悪くして入院した時、私が彼の主治医となりそれから彼は酒をやめました。『酒を止めた』と一言でいいますと簡単のように聞こえますが、その困難さは知る人ぞ知る至難のことに属します。人間が直面する困難には、外なる困難と、内なる困難があり、自分自身に打ち克つ努力をした経験のある人には、後者が前者に勝るとも劣らない困難であることを了解することでありましょう。彼はその内なる困難を見事に克服したわけです。従ってこれからの外なる困難は、それがいかに大変であろうとも立派に打ち克つものと信じます」
と。
ところが、私が注意深く避けた「アル中」という言葉を親戚代表として立ったお兄さんが、その謝辞の中で堂々と述べ出席の人々に弟への引き立てと共に、酒についての誘惑をしないでいただきたい旨宣言されました。会場は一瞬世間的なエチケットを超えた真実な雰囲気が支配し、彼の乗り越えてきた苦悩に対する驚きと尊敬の空気が湧き起こりました。その後彼は、美しいお嫁さんと共に慣習に従って列席の人々に笑顔でお酒をついで回りました。もちろん私のところにも参りましたので、喜んでいただきました。しかし私はいうに及ばず、会場の誰もが、彼に祝福の言葉は注いでも酒は注がないという和気あいあいとした自然な祝宴が展開されました。
祝宴で「お互いに喜びを注ぎ合う」という儀式の一種の手段としての酒の使用は、単なる習慣であって本質とはあまり深く関係してはいません。大切なことは、心から喜びを注ぎ合うことです。酒をやめたが、喜びを注ぎ合うことも中止したのでは人生は淋しいものになります。酒という手段は避けて、しかも喜びを注ぎ合う…いや、彼にとって害になる酒という手段を避け得たがためにこそ、この大いなる喜びを注ぎ合えるのです。
心から喜びを注ぎ合う、その手段として会衆(アル中でない人々)には酒を! 彼にはジュースを! そこには、それぞれの人がその人の独自の因縁と歩みに応じてみんなに共通する人間的喜びを自由に享受するという、わが国の悪習(自分の手段を相手に強要する)を克服した祝宴が実現しています。この事実は、会衆の多くの人々の心の中にいまだ明白な形はとらないにしても、人間の困難に打ち克つ可能性と自由の尊厳を感じさせずにはおかなかったことと思います。
みなさんが、酒の束縛から立ち直ることは、単に多くの同病の人々に希望を与えるだけでなく、社会の多くの人々に、人間の独自の自由を否定する日本的悪習を改めさせる大きな力となることを、彼の結婚式は示していると私は信じます。
彼の前途に幸いあらんことを!
歴史の重み
人間の歴史というものは、その人の人格そのものではないにしても、非常に近似的なものです。私は退院する方々に、よくこの事を話します。「退院して三か月、六か月、まじめに努力しても誰も自分を信用してくれない」といって腹を立てて再び飲酒する人があります。他人が六か月間の努力した自分を無視して十数年前の自分ばかりを評価するというわけです。社会が馬鹿者の集まりでない限り、たかだか三か月や六か月の断酒をしたからといって、それまでの十数年の飲酒歴を帳消しにするほど社会は甘くありません。従って、当然な扱いに腹を立てるのは、自己中心的でさえあります。
しかしながら、歴史の重みの論理は、断酒歴が一年二年と続く時、ギシギシと重みを増してきます。疑っていた人の心の中に、疑われながらも黙々と断酒をつづけている人々に加える疑惑の恥ずかしさに、良心の痛みが生じてきます。そうなるとシメたものです。道徳的立場は逆転してしまいます。
ここに至る期間は人によって千差万別です。ある人には一年、ある人には二年でありましょう。それぞれの歴史と歩みによって、その道徳的品性は評価され、それは単なる口約束や巧事によっては変えられないものです。
歴史を作りましょう、新しい歴史を! それ以外の王道はないのです。それがいかに辛く困難なことでも。
「なれあい」と「親しみ」について
酒を飲む人は、あるいは酒を飲むことは、人と人との関係をスムーズにして「親しみ」を増すといわれています。これは間違いのない一面の真理でありましょう。しかしながら、私の接する時のみなさんの状況は、周囲の人となんと「親しみ」が消失していることか。
その代わり「なれあい」が、人間の弱点を露骨に表すなれあいが充満しています。そこには、弱点を克服しようとする努力や緊張はなく、ただ弱点にのめりこんでいく利己的な「なれあい」のみが目立ちます。しかもそれを人間的な「親しみ」と勘違いしているのです。
人間が胸中の弱点―自己中心的な傾向を持っていることは歴然とした事実ですし、従ってその傾向を持っていること自体は決して恥ずかしいことではありません。それは克服されるべきものとしてあるのです。人間という言葉のとおり、「人と人との間」のかかわり合いとして、お互いに相手の傾向を認め合いながら克服しようと努力する時のみ、真の人間的親しみが生じてくるのではないでしょうか。これを忘れた時、その傾向(自己中心的傾向)は「親しみ」へではなく、利己的な「なれあい」へと変質します。「なれあい」は「親しみ」と同様に、人と人とのかかわり合いという共通の性質のためそれを「親しみ」と勘違いするのです。
患者さん同志は、深く弱い人間性を共有しています。だから「なれあう」のではなく、「親しみ」を創り出さねばなりません。この両者は、非常に似たようで全く異質なものです。心の中を探って、「なれあい」の種を捨て、「親しみ」の種を育てましょう。
取引のための空手形
昨日ある患者さんから、「女房からも見離されそうだし、今度こそは真剣に生きる気待ちになったから何とかしてほしい」との相談を受けました。その時の患者さんの顔は真剣そのもので、彼の本心を私は疑いませんでした。しかしながら私は、次のように話しました。
「あなたの話はマイナスの実績しか伴わない“お話”に過ぎない、特に奥さんはそう確信するでしょう。そして、あなたが“お話”を奥さんに信じさせ、奥さんに何かを期待してのことであれば、これはまったく見込みはないですよ。あなたにとって唯一の道は、奥さんがどのような反応を示そうと、それは仕方のない“現実として素直に受け止め”今の決意が真実であるという実績を示す以外にないですね。奥さんが、あなたに好ましい反応をしてくれないからと酒を飲むようであれば、あなたの今の決意は“取引のための裏付けのない空手形”だったことになりますね。
したがって、あなたは、今は、どんなに辛くても“取引のためのお話”でない実績を作ることに努力する以外の道はない、ということになります」
私が患者さんに向かって協力を求めるとき、どんなに小さなことでも、患者さんの実績を基礎にして話をすると、大きな説得力を発揮できます。しかし、患者さんの“お話”だけの時は、その患者さんがどれだけ真剣であっても、長年苦しみ抜いた家族の人たちを説得する力はありません。自分ではいかに真剣であっても、何らの実績を伴わない“お話”や約束は、無効であるということをもう一度噛みしめていただきたいと思います。
日常の些細なことを大切に
毎日私たちが繰り返している些細なことは、人間の精神にとって、目立たないことではありますが、決定的な影響をもたらすものです。
重大な決心は、劇的な効果を現すことがありますので、人目に立ちます。しかし、よく考えてみますと、そのような決意に至る道すじは、地味な日常の出来ごとの積み重ねが、ある日突然意識化されるにすぎないことが多いものです。頭の中だけでの重大な決心は、簡単に発想できますが、実行はおよそ伴わないものが多いのは、みなさんもよく体験しておられるところだと思います。
ところが、朝三〇分早く起きるというごく些細な日常的なことは、考えとしてはごくつまらない大したことではないように一見思われますが、いざ実行しようとすると、それが、よほどの重大なこと以上に大変で、些細なことだけにかえってしみ通るような形で、重大な決心をしなければ実行不可能であることが悟らされます。心を変えるには、重大な決心を先にするより、ごく些細な日常的な習慣を現実的に変革することが大切です。現実が変革されていくに従って、心は確実に変革されます。
禁煙の部屋で喫みたい時に気ままにタバコを喫むという規則違反を改めることは、断酒と関係がないように思われるかも知れませんが、これこそが、頭の中だけで断酒をしようとする決心や誓いより、よほど重大なことであり、断酒に直結するものです。
毎日のごく些細なことを大切にしましょう。人間の心は、正にそこにこそ展開されているのですから。
連帯責任について
連帯意識というものが断酒をつづける時に非常に大切であることは、断酒会の活動を見ても容易に了解できることです。
では、どういう時にその連帯感が育成されるのかということになると、やはり共同の責任や、共通の苦しみをともにすることによって一番明らかになります。当病棟では、たとえば、外泊の特別許可(連休の時など)を病棟全体の無事故を条件にして出すことにしています。従って、ある人が過失を犯すと、全員が特別の外泊許可を取り消されてしまうというようなことも起こり得ます。こういう時に出てくる意識は、いろいろなものがありますが、要するに「他人の過失のために自分が不利になるのは真平御免だ」というものです。
しかし、よく考えてみましょう。「アル中」といわれる人たちに対する社会的医療的な現実の態度は、大多数のアル中の人たちのそれぞれ独立した行動を、社会が評価したものの正確な反映です。冷酷なまでにそれは正確な反映であります。とすると、それを改善するのは、それぞれの個人の患者さんたちの地道な努力以外にはありません。「開放管理」という望ましい病棟のあり方も、「東六」の先輩の人たちの努力なしには恐らく、一、二年で崩れてしまっていたでしょう。
アル中の人たちの過失を自分のものとし、連帯感を持って共に背負っていく時、その友情にこそ患者さんは最も動かされることでしょう。そして、そのような共同体を作ること、そのような努力を「共にする」ことこそが、治療の真髄であるということは、「東六」の治療の体験が教えてくれています。
アル中の喜びも悲しみも共にする、という意識を育てなければ、自分自身が崩れ去るという現実を学んでいただきたいと思います。
自由・平等・友愛
束六棟の生活を律するものをまとめてみたらどのような言葉になるだろうか、ということを以前看護婦さんたちと考えてみたことがあります。
いろいろと議論が出てきました。まずFさんが「自治会の経験から」の中で、その前提として語られた「私たちはアルコールの患者として、はじめから退院まで共に生活しているという、当り前のしかし、忘れがちなことを念頭に置いた上で、フランス共和国のスローガンが一番適切な言葉になるような気がしています」というのがあります。
すなわち自由・平等・友愛の三つの理念です。みなさんは人間として正に酒を断つも断たぬも自由であります。重役さんも、鳶職の人も、お金持ちも貧乏人も、患者であるということでまったく平等であります。しかし、自由と平等を主張する時、最も難しいのが団結で、それはみなさんの友愛によってのみ達成し得るのです。
自分が立ち直るのみでは、社会病としてのアルコール症は克服できないでしょう。自由・平等な人間が、友愛によって団結する時のみそれは可能になるのです。
自分への誓い
自分の力で変えることのできないものをできないものとして受け入れる、心のゆとりをもとう。自分の力で変えられるものを変えてゆく勇気をもとう。
そして、自分で変えられるものと変えられないものを区別する知恵をもとう。
・・・